白笹鼓の大吟醸がりんごの香りがする。果物は入っていないのに。その秘密を解き明かす
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白笹鼓の大吟醸がりんごの香りがする。果物は入っていないのに。その秘密を解き明かす
白笹鼓の大吟醸のグラスに鼻を近づけると、りんごの香りがする。使っている材料は米、水、麹、酵母だけだ。りんごは一切入っていない。この事実を初めて聞いた人は「嘘だろう」と言う。嘘ではない。香りの正体はカプロン酸エチルという化学物質で、酵母が発酵中に作り出す。りんごの実にも含まれている分子と、同じものだ。
この「果物を使っていないのに果物の香りがする」という現象を理解するには、嗅覚の仕組みから、酵母の代謝、麹の役割、温度と揮発性の関係まで、いくつかの科学を横断する必要がある。蔵で毎年「今年の香りはどうしよう」と考えながら酒を仕込んでいる立場から、できるだけ正確に書いてみたい。
香りは自然に生まれるものだ。酵母を選び、温度を整えることはできる。しかし最終的に何が出てくるかは、微生物次第だ。なぜ香りで記憶が蘇るのか — 嗅覚の神経回路
五感の情報は通常、視床(ししょう)という中継地点を経由して大脳皮質に届く。しかし嗅覚だけは違う。鼻の奥の嗅上皮で捉えられた匂い分子の情報は、嗅球から直接、海馬(記憶)と扁桃体(感情)に送られる。 他の感覚は「理性のフィルター」を通してから処理されるが、嗅覚は脳の原始的な部分にダイレクトに到達する。
嗅覚受容体の仕組み
匂い分子が鼻腔に入ると、まず嗅上皮にある約400種類の嗅覚受容体がそれを捕まえる。一つの匂い分子は複数の受容体を同時に刺激し、その組み合わせパターンで「何の匂いか」が認識される。この仕組みは、リチャード・アクセルとリンダ・バックが1991年に*Cell*誌に発表した嗅覚受容体遺伝子の発見(Buck L, Axel R. *Cell*, 1991)に基づいており、2人は2004年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。
受容体で生じた電気信号は嗅神経を通って嗅球に到達する。嗅球では信号のフィルタリングと増幅が行われ、ここから先が嗅覚の特殊性が発揮される場所だ。嗅球からの出力は2つの経路を辿る。
- 嗅球 → 扁桃体 → 情動反応(好き/嫌い/危険の判断)
- 嗅球 → 海馬 → 記憶との照合(「この匂いは何の記憶と結びつくか」)
視覚や聴覚では、情報が大脳新皮質で処理されてから海馬や扁桃体に送られる。つまり「理解してから感じる」順番だ。しかし嗅覚は「感じてから理解する」。だからこそ、白笹鼓の大吟醸の栓を開けた瞬間に理由もなく「いいな」と思ったり、何年も前に飲んだ酒の記憶が蘇ったりする。言語化するよりも先に、感情と記憶が動く。これが「プルースト効果」と呼ばれる現象の正体だ。プルースト効果の神経科学的メカニズムについては、Herz RSが*International Journal of Neuroscience*(2009)で包括的なレビューを発表している。
嗅覚疲労 — 蔵で毎日体験していること
蔵で働いていると面白い現象がある。朝、蔵に入った瞬間は麹の甘い香りが強烈に感じられるが、30分もすると何も感じなくなる。これは嗅覚疲労(嗅覚順応)と呼ばれる現象で、同じ匂い分子に曝露され続けると受容体が脱感作(感度が下がる)する。
背景の匂いに慣れることで、新たに発生した異臭(危険のサイン)を検知しやすくなる。蔵人が「異臭に敏感」なのは、日常の蔵の匂いに順応しているからこそ、そこからの逸脱を即座に察知できるからだ。仕込みタンクの蓋を開けたときのバナナとリンゴが混ざったような発酵の香り——これは20年経っても忘れない。
白笹鼓・黒笹Edenの香りの正体 — 吟醸香とは何か
日本酒を飲んで「フルーティ」と感じたことがあるなら、それは吟醸香だ。りんご、洋梨、バナナ、メロン——実際にはこれらの果物は一切使われていない。香りの正体は、酵母が発酵中に生み出すエステル化合物だ。
主要な香気成分を6つ紹介する
カプロン酸エチル(ethyl caproate)。 りんごや洋梨を思わせる華やかな香り。低温(10℃前後)でゆっくり発酵させると多く生成される。白笹鼓の大吟醸のあの上品な果実香の正体がこれだ。黒笹EdenはM310酵母を使い、この香りが特に豊かに出るよう条件を整えている。閾値(感じ取れる最低濃度)は日本醸造協会の研究データによると約0.2ppbと極めて低く、ごく微量でも人の鼻は検知できる。 酢酸イソアミル(isoamyl acetate)。 バナナやメロンを思わせる甘い香り。やや高めの温度で発酵させると出やすい。白笹鼓の本醸造や純米酒に漂う穏やかな香りの中核を担っている。この物質はバナナの実際の香りの主成分でもある(*Journal of the American Society of Brewing Chemists*に多数の研究報告がある)。だから白笹鼓の純米酒を飲んで「バナナみたい」と感じるのは比喩ではなく、文字通り同じ化学物質を検知しているのだ。 4-メチル-4-メルカプト-2-ペンタノン(4MMP)。 グレープフルーツやパッションフルーツを思わせるトロピカルな香り。チオール系化合物と総称されるグループの一つで、ワインのソーヴィニヨン・ブランの香りの主成分としても知られ、碧笹・緋笹(77号酵母使用)のシャープな果実味にも関与している。 フェニルエチルアルコール(2-phenylethanol)。 バラの花を思わせるフローラルな香り。白笹鼓の純米大吟醸で微かに感じるバラの香りはこれだ。 イソブチルアルデヒド。 穀物やナッツを思わせる香り。白笹鼓の本醸造の「米らしさ」の一端を担う成分で、火入れ(加熱処理)で減少する。 ソトロン(4,5-dimethyl-3-hydroxy-2(5H)-furanone)。 カラメルやメープルシロップを思わせる甘い熟成香。SAKE for Highballの樽熟成酒で際立つ香りで、メイラード反応の過程で生成される。日本醸造協会誌には古酒の熟成香とソトロン濃度の関係に関する研究が複数掲載されている。二大エステルの比率が白笹鼓の方向性を決める
カプロン酸エチルと酢酸イソアミル——この2つの割合で日本酒の香りの方向性が決まる。カプロン酸エチルが多ければ華やか、酢酸イソアミルが多ければ穏やか。
黒笹EdenはM310酵母でカプロン酸エチル寄りの華やかな香りを狙う。白笹鼓の本醸造は7号酵母で酢酸イソアミル寄りの穏やかな香りになる。碧笹・緋笹は77号酵母でリンゴ酸が加わり、白ワイン的なシャープさが出る。結果として何が出てくるかは、毎年微妙に違う。 調香師のように分子を配合するのではなく、微生物に舞台を用意して、あとは任せる。
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麹と香りの前駆体 — 香りは麹室から始まっている
吟醸香は酵母が作ると書いたが、酵母がエステルを合成するための「材料」を供給しているのは麹だ。この点は見落とされがちだが、蔵では非常に重要視している。
カプロン酸エチルの場合を例にとる。エステルは「酸+アルコール → エステル+水」という縮合反応で生じる。つまりカプロン酸エチルはカプロン酸(ヘキサン酸)とエタノールから作られる。エタノールは酵母がアルコール発酵で大量に生産するから不足しないが、カプロン酸のほうは酵母の脂肪酸合成経路から供給される。
ここで麹が関わってくる。麹が米のタンパク質を分解して生み出すアミノ酸は、酵母の栄養源になるだけでなく、脂肪酸合成経路の活性にも影響する。ロイシンやバリンなどの分岐鎖アミノ酸が豊富にあると、酵母の脂肪酸合成が活発になり、結果としてエステル生成も増える。
つまり黒笹Edenの華やかな吟醸香を出すためには、M310酵母を選ぶだけでなく、良い麹を作る必要がある。蔵では「麹は酒造りの七割」とよく言うが、香りにおいても麹が土台を作っているというのは、科学的にも正しい。うちの麹室は1回あたり180kgの処理能力で、ここでの48時間の仕事が香りの出発点になる。
温度と揮発性 — 白笹鼓の飲み方を変えると香りが変わる理由
グラスに注いだ日本酒の香りは、温度で劇的に変わる。これは香気成分の蒸気圧が温度によって変化するためだ。
温度と香りの関係を具体的に
| 温度帯 | カプロン酸エチル(りんご) | 酢酸イソアミル(バナナ) | 高沸点成分 | 合う白笹鼓商品 |
|---|---|---|---|---|
| 5℃(冷酒) | 穏やかに香る | ほぼ感じない | 出ない | 大吟醸・黒笹Eden |
| 15℃(涼冷え) | バランス良く香る | 揮発し始める | わずか | 碧笹・緋笹 |
| 40℃(ぬる燗) | 強く揮発 | 前面に出る | バラ・有機酸も立つ | 純米酒・本醸造 |
| 50℃以上(熱燗) | ほぼ飛散 | 減少 | カラメル・穀物香 | SAKE for Highball |
同じ白笹鼓の純米酒を4つのグラスに注ぎ、それぞれ5℃、15℃、40℃、50℃にして嗅いでみると、同じ酒とは思えないほど香りの印象が変わる。 成分が変わったのではなく、揮発する成分の比率が変わっただけだ。
日本酒の香りの体系 — アロマホイール
ワインの世界にはカリフォルニア大学デイビス校のアン・ノーブル教授が1984年に発表した「ワインアロマホイール」がある。日本酒にも独立行政法人酒類総合研究所が体系化した分類がある。
日本酒の香りは大きく以下の系統に分類できる。
果実系。 これがいわゆる吟醸香。りんご(カプロン酸エチル)、バナナ(酢酸イソアミル)、洋梨、白桃、メロン。黒笹Edenや白笹鼓大吟醸で顕著。 フローラル系。 バラ(フェニルエチルアルコール)、ジャスミン、白い花。フローラルと果実の境界は曖昧で、実際にはこの二つが複合して「華やかさ」を形成している。 穀物系。 炊きたてのご飯、おこげ、ナッツ、餅。白笹鼓の純米酒の米の旨味を感じさせる香りの系統。 乳製品系。 ヨーグルト、バター、クリーム。乳酸やジアセチルに由来する。生酛系の酒に顕著。 熟成系。 カラメル、蜂蜜、醤油、味噌、スパイス。ソトロンやメイラード反応生成物に由来する。SAKE for Highballの樽熟成で際立つ系統。 木質系。 杉、檜、白檀。SAKE for Highballの樽由来の香り。セスキテルペン類が主成分。 ハーバル系。 青草、ハーブ、若葉。ヘキサナール(青葉アルデヒド)に由来し、搾りたての生酒に微かに感じられることがある。ワインと日本酒の香り — 何が違うのか
ワインと日本酒はどちらも発酵飲料であり、香りを構成するエステルの種類には重複がある。しかし香りの「構造」が根本的に異なる。
ワインの香りは大きく3層に分けられる。一次アロマ(ブドウ品種由来)、二次アロマ(発酵由来)、三次アロマ(熟成由来)。ブドウの品種によって香りの方向性がかなり決まる。
日本酒の場合、原料の米にはほとんど香りがない。日本酒の香りのほぼすべてが「発酵由来」であるという点が、ワインとの最大の違いだ。つまり、酵母と麹の仕事ですべての香りが生まれる。黒笹Edenのりんごの香りも、碧笹の白ワイン的な酸味も、白笹鼓本醸造の穏やかなバナナ香も、すべて微生物が作り出した。原料のポテンシャルに依存するワインと、微生物のポテンシャルに依存する日本酒。この違いが、造り手の介入の仕方を根本的に変えている。
もう一つの大きな違いは、日本酒には「タンニン由来の渋み香」がないことだ。蔵では複数の酵母を使い分けたり、発酵温度に変化をつけたりして、香りの多層性を追求している。黒笹EdenのM310、碧笹・緋笹の77号、白笹鼓定番の7号——酵母の違いが、うちの酒のラインナップの個性を作っている。
仕込み水は秦野盆地の地下水で、硬度80〜90mg/Lの中硬水だ。この水のミネラル組成が酵母の代謝に影響し、結果的に香りのプロファイルにも反映される。水のテロワールは、日本酒の香りの「隠し味」のようなものだ。
香りの分類 — 7つの系統
香りを体系的に理解するなら、大きく7系統に分類できる。日本酒に限らず、日常の香り全般に使える枠組みだ。
柑橘系。 レモン、オレンジ、グレープフルーツ。リモネンやシトラールが主成分。爽快感とリフレッシュ効果がある。クラッチュ(レモンサワーの素、果汁40%、大吟醸ベース)は柑橘の香りそのものを活かした商品で、この系統のど真ん中にいる。リモネンの覚醒・鎮静効果についてはSugawara Yらの芳香効果に関する研究がある。 フローラル系。 バラ、ジャスミン、ラベンダー。ゲラニオール、リナロール、酢酸リナリルなどが代表的成分。リナロールが副交感神経系を活性化させるという研究報告があり(Sugawara Y et al.)、リラックス効果が高いとされている。黒笹Edenの吟醸香にはフローラルなニュアンスが含まれる。 フルーティ系。 りんご、洋梨、桃、バナナ。各種エステルが主成分。吟醸香の主成分であり、白笹鼓の大吟醸を開けた瞬間に部屋に広がるのは、まさにこの系統の香りだ。 ウッディ系。 杉、檜、サンダルウッド。セスキテルペン類やセドロールが主成分。鎮静効果があるとされる(Li Q. *Int J Immunopathol Pharmacol.*, 2009)。SAKE for Highballの樽熟成の香りがこれに当たる。 スパイシー系。 シナモン、ペッパー、ジンジャー。シンナムアルデヒド、ピペリンなどが主成分。 スモーキー系。 燻製、焙煎。フェノール類やフルフラールが主成分。日本酒ではあまり出ないが、焼酎やウイスキーでは主要な香り要素。 ハーバル系。 ミント、バジル、草原。メントール、オイゲノール、ヘキサナールが代表的。草を刈ったときの青い香りは、植物が傷ついたときに放出するヘキサナールで、搾りたての酒にも微量含まれる。鼻を鍛える — 蔵で新人に教えている方法
「私は鼻が利かない」という人は多いが、嗅覚は訓練で向上することが複数の研究で示されている。蔵で新人に教えているトレーニング法を紹介する。
ステップ1:香りに名前をつける習慣
毎日の食事や散歩で出会う香りに、意識的に名前をつけてみる。「コーヒーの匂い」で止まらず、「焙煎の苦い香りの中に、フルーティな酸味の香りがある」まで分解する。言語化することで嗅覚の解像度が上がる。
ステップ2:白笹鼓の飲み比べで「違い」を探す
白笹鼓の本醸造と大吟醸を並べて嗅ぐ。黒笹Edenと碧笹を並べて嗅ぐ。「違い」を探すことで、個々の香りの特徴が際立つ。人間の鼻は絶対評価より相対評価が得意だ。 本醸造の穏やかなバナナ香と、黒笹Edenの華やかなりんご香の差を感じ取れたら、カプロン酸エチルと酢酸イソアミルの違いを体で理解したことになる。
ステップ3:記憶と結びつける
香りを嗅いだとき、連想されるイメージや記憶を意識的に記録する。「黒笹Edenの香りは、秋にもいだりんごの匂いに似ている」——個人的な記憶との結びつきが、香りの記憶定着を助ける。
ステップ4:香りのライブラリを作る
小瓶にコーヒー豆、シナモンスティック、レモンの皮、バニラエッセンスなどを入れ、ラベルを貼って並べる。毎日1つ選んで嗅ぎ、特徴を言語化する。3ヶ月続けると、嗅覚の識別能力が明確に向上する。 蔵の新人にもこのトレーニングをさせていて、半年後には利き酒の精度が格段に上がる。
香りの劣化 — せっかくの吟醸香を守るために
せっかくの吟醸香も、保管が悪ければ劣化する。日本酒の香りの最大の敵は「光」「温度」「酸素」の3つだ。
光による劣化。 紫外線がリボフラビン(ビタミンB2)を分解し、メチオナール(日光臭)を生成する。透明な瓶の酒を窓際に数時間置くだけで発生する。日本酒の瓶が茶色や緑色なのは、紫外線を遮るためだ。 高温による劣化。 30℃以上の環境に放置すると、メイラード反応が急速に進み、老ね香(ひねか)と呼ばれる不快な熟成臭が出る。意図的な熟成で生じるソトロンの甘い香りとは異なり、老ね香はDMTS(ジメチルトリスルフィド)が主成分で、タクアンのような匂いがする。 酸素による劣化。 開栓後に空気に触れると酸化が進み、アセトアルデヒドが増加する。開栓後はできるだけ早く飲み切るか、小瓶に移し替えて空気の接触面を減らすのが良い。白笹鼓を買ったら、冷蔵庫の野菜室に入れる。開栓したら早めに飲む。この2つを守るだけで、蔵で出荷した時の香りをそのまま楽しめる。
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白笹鼓のグラスに鼻を近づけるとき
香りは最も言語化しにくい感覚だが、一度その解像度を上げると、食事もお酒も、これまでと違う質感で感じられるようになる。白笹鼓の大吟醸を注いだグラスに鼻を近づけたとき、「りんごだ」と感じるだけで終わらず、「カプロン酸エチルが出ている、M310酵母で低温発酵だな」と想像してみてほしい。そこまでの知識がなくても、「果物は入っていないのに果物の香りがする」という事実だけで、一杯の酒の奥行きは何倍にも広がる。 日本酒の香りの正体 / 食と香りのペアリング蔵の便りをメールで受け取りませんか?
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