黒笹Edenを開けた瞬間に広がる果実香。あの香りの正体は酵母が作る化学物質だった
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黒笹Edenを開けた瞬間に広がる果実香。あの香りの正体は酵母が作る化学物質だった
黒笹Edenの瓶を開けると、部屋にりんごと白桃の香りが広がる。グラスに注いで鼻を近づけると、さらに華やかになる。しかしこの酒にりんごも白桃も一切使われていない。米と水と麹と酵母しか入っていない。
答えは酵母にある。もっと正確に言えば、黒笹Edenに使っている協会M310酵母が代謝の副産物として放出する「カプロン酸エチル」という化学物質の仕業だ。この物質は、りんごの実にも含まれている。同じ分子だから、同じ香りがする。
偶然の産物ではない。M310酵母を選び、発酵温度を10℃前後に維持し、仕込みから搾りまで約30日かける。この条件を整えることで、りんごの香りが出やすい環境を作っている。 ただし、毎年同じ香りになるかというと、そう単純ではない。酵母は生き物だ。
ここでは黒笹Edenと白笹鼓シリーズの香りを軸に、吟醸香の2大成分だけでなく、日本酒に含まれるすべての重要な香気成分、オフフレーバーの原因、熟成による変化、そして酵母の品種ごとの個性まで、香りの世界の全体像を描いてみたい。
エステルとは何か
エステルとは、有機酸とアルコールが結合してできる化合物の総称だ。自然界のあらゆる果物の香りの主成分でもある。りんごの香りの正体はエステルだし、バナナの甘い匂いもエステル、イチゴの香りもエステル。
日本酒の発酵中、酵母は糖をアルコールに変える過程で副産物としてエステルを生み出す。果物を入れていないのに果物の香りがする理由は、同じ化学物質が酵母の代謝でも合成されるからだ。
エステルの生成量は発酵条件によって大きく変わる。温度、酵母の種類、米の精米歩合、仕込み配合——これらすべてが香りのバランスに影響する。だから黒笹Edenの香りを定めたいなら、これらの変数を丁寧に整える必要がある。ただし最終的に何が出てくるかは、微生物次第だ。
黒笹Eden・白笹鼓の香りを構成する主要成分
日本酒の香りを語るとき、カプロン酸エチルと酢酸イソアミルが必ず登場する。しかし実際には、日本酒に含まれる香気成分は数百種類に及ぶ(酒類総合研究所や日本醸造学会の分析研究による)。そのうち特に重要なものを整理する。
カプロン酸エチル(Ethyl caproate / Ethyl hexanoate)
りんご、洋梨、アプリコットを思わせる華やかな香り。「華やか系」の代表成分で、黒笹Edenの上品な果実香の正体がこれだ。低温(8〜12℃)でゆっくり発酵させると生成が促進される。酵母が低温でストレスを受けると、この成分をより多く作り出す傾向がある。
黒笹EdenではM310酵母をベースに、発酵温度を10℃前後に維持する。仕込みから搾りまで約30日。この長い低温発酵がりんごの香りを生む。
官能閾値(人間が感じ取れる最低濃度)は日本醸造協会の研究データによると約0.2ppm。大吟醸では2〜5ppm含まれることがあり、閾値の10倍以上。だから瓶を開けただけで部屋に果実香が広がるのだ。
酢酸イソアミル(Isoamyl acetate)
バナナ、メロン、洋梨の甘い香り。「穏やか系」の代表成分。比較的高い温度(15〜18℃)で発酵させると出やすい。白笹鼓の本醸造や純米酒に漂う、控えめだが確かに感じるバナナっぽい香りがこれだ。
酢酸イソアミルはビールの世界でも有名で、ヴァイツェンビールのバナナ香の正体でもある(*Journal of the American Society of Brewing Chemists*にビールにおけるエステル生成に関する多数の研究が掲載されている)。日本酒とビール、まったく異なる酒が同じ化学物質で同じ香りを出すのは面白い。
カプリル酸エチル(Ethyl caprylate / Ethyl octanoate)
柑橘、パイナップルを思わせる香り。カプロン酸エチルより炭素鎖が2つ長い。黒笹Edenに少量含まれ、カプロン酸エチルと共存すると果実香に奥行きが出る。
酢酸エチル(Ethyl acetate)
除光液のような刺激的な香り……と言うと悪い印象だが、少量では「キレ」や「軽快さ」の一因になる。問題は量で、100ppmを超えると不快に感じる。適量なら酒に生気を与え、過剰なら欠陥になる。
4-ビニルグアヤコール(4-VG)
クローブ、スパイスのような香り。純米酒に微量含まれると「複雑さ」として好意的に評価されるが、多すぎると「薬品臭」と受け取られる。
フルフラール
焦げた砂糖、カラメル、トーストのような香り。熟成中にメイラード反応で生成される(日本醸造協会誌に熟成酒のメイラード反応に関する報告がある)。SAKE for Highballの樽熟成酒の琥珀色と甘く焦げた香りに寄与している。
ジアセチル
バター、ヨーグルトのような香り。乳酸菌由来。微量なら「まろやかさ」の一因だが、多いと「乳臭い」という欠陥になる。
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精米歩合と香りの関係
米をどこまで削るか(精米歩合)は、香りに直結する。
精米歩合70%(本醸造クラス)。 米の外側に多いタンパク質や脂質がある程度残っている。脂質はエステル生成を抑制する方向に働くため、白笹鼓の純米酒がしっとりした落ち着いた香りなのは、この効果もある。 精米歩合50%(大吟醸クラス)。 脂質が減ることでエステル生成が促進され、華やかな吟醸香が出やすくなる。米を半分まで削るのは「贅沢」だからではなく、望む香りが出やすい条件を作るために必要だからだ。白笹鼓の大吟醸や黒笹Edenの華やかさの理由がここにある。 精米歩合35%以下(超精米)。 ここまで削ると、米はほぼ純粋なデンプンの塊になる。香りは極めてクリアで雑味がない。しかし蔵では「削りすぎは味気ない」と感じることもある。香りの豊かさと複雑さは、ある程度の「不純物」があってこそ成り立つ。うちで使い分けている酵母 — 香りの設計図
日本酒に使われる酵母には番号が振られている。日本醸造協会が頒布する「きょうかい酵母」が代表的で(日本醸造協会酵母頒布カタログ参照)、番号ごとに香りの特徴が違う。蔵で実際に使い分けている経験を交えて詳しく紹介する。
| 酵母 | 分離年・由来 | 主な香り | 発酵力 | うちの商品 |
|---|---|---|---|---|
| 7号(真澄酵母) | 1946年・長野 | バナナ・メロン(穏やか) | 強い | 白笹鼓 定番商品 |
| M310 | 改良株 | りんご・白桃(超華やか) | 弱い | 黒笹Eden |
| 77号 | 新世代酵母 | 果実香+シャープな酸味 | 普通 | 碧笹・緋笹 |
7号酵母 — 白笹鼓の土台
1946年に長野県の宮坂醸造「真澄」から分離された。穏やかで安定した香り。酢酸イソアミルを中心に、バナナやメロンの控えめな果実香を出す。華やかすぎず、食事の邪魔をしない「食中酒」向きの香りが特徴。白笹鼓の定番商品で使っている。
発酵力が強く安定しているため、蔵での扱いが比較的楽だ。7号で仕込んだ酒には「安心感」がある。奇を衒わない、しかし確実においしい酒になる。
M310酵母 — 黒笹Edenの心臓
カプロン酸エチルの生成量が突出して多い株で、カプロン酸エチルの生成量が突出して多い。「超華やか」な香りの酒を造りたいときの選択肢だ。
ただしM310には弱点がある。発酵力がやや弱く、もろみの管理に神経を使う。温度が1℃上がっただけで香りのバランスが変わる。蔵で使うたびに「繊細な子だな」と思う。しかし、うまくいったときの華やかさは他の酵母では出せない。上品なりんごと白桃の香りが立ち上り、グラスに注いだ瞬間に部屋に果実香が広がる。これが黒笹Edenの正体だ。
77号酵母 — 碧笹・緋笹の個性
比較的新しい酵母で、リンゴ酸(malic acid)の生成量が多いのが特徴。このリンゴ酸が白ワインのような爽やかな酸味を生む。
碧笹と緋笹にはこの77号を使っている。香りとしてはエステル系の果実香に加えて、酸由来のシャープさが加わる。若い飲み手に「日本酒っぽくない」と驚かれることが多い酒だ。ワイングラスで飲むと、白ワインと見間違える人もいる。
その他の注目酵母
県独自の酵母。 静岡のHD-1、山形のKA、秋田のAK-1など。「地酒の個性」は蔵の技術だけでなく、その地域で開発された酵母からも生まれる。特定名称酒ごとの香りの違い — 白笹鼓ラインナップで解説
純米酒
米、水、麹だけで造る。エステル系の果実香より、米の蒸れた香りやほのかな乳酸の香りが特徴。白笹鼓の純米酒は食事と合わせたとき、主張しすぎずに料理を引き立てる。ぬる燗〜上燗で甘い米の香りが立ち上り、冷酒では感じなかった旨味の層が現れる。
本醸造
少量の醸造アルコールを添加する。エステルはアルコールに溶けやすいため、もろみ中の香気成分が酒に移行しやすくなる。白笹鼓の本醸造は、7号酵母の穏やかなバナナ香がちょうど良い塩梅で出ている。唐揚げとの相性が鉄板だ。
吟醸酒・大吟醸酒
精米歩合60%以下(吟醸)/ 50%以下(大吟醸)で、低温長期発酵。カプロン酸エチルを中心に、華やかな果実香が最大限に引き出される。黒笹Edenはこのカテゴリの中でもM310酵母で突き抜けた華やかさを狙っている。
生酒
火入れをしない生酒は、フレッシュな香りが特徴。搾りたてのフルーティな香りに加えて、微かな炭酸感と酵母の生きた香りがある。ただし温度管理が悪いと急速に劣化する。
熟成と香りの変化 — SAKE for Highballの世界
新酒の香りと、1年熟成した酒の香りはまるで違う。5年、10年と寝かせると別の飲み物になる。
1年以内の変化
搾りたてのフレッシュな果実香が徐々に落ち着く。酢酸イソアミルは比較的早く減少し、カプロン酸エチルはやや長持ちする。代わりに、穏やかなハチミツや焼き栗のような甘い香りが出始める。
3〜5年の熟成
色が淡い黄金色から琥珀色に変わり始める。メイラード反応が進み、カラメル、ナッツ、ドライフルーツのような香りが現れる。
SAKE for Highballの樽熟成
SAKE for Highballは樽で熟成させている。木質のセスキテルペン、バニリン、そしてソトロンが加わり、ウイスキーに通じるウッディな複雑さが生まれる。フルフラール、ソトロン(メープルシロップ様の香り)、HMF(ハチミツ様の香り)が熟成酒の香りの主役だ。日本醸造協会誌や酒類総合研究所の研究報告で詳しく分析されている。
ソーダで割ると、これらの香りが炭酸の泡に乗って軽やかに立つ。「日本酒のハイボール」という新しいカテゴリの提案が、この香りの設計から生まれた。
オフフレーバー — 「嫌な香り」を知ることが、良い香りを知ること
おいしい香りがある一方で、避けるべき香り(オフフレーバー)もある。
日光臭(にっこうしゅう)
紫外線に当たった日本酒に発生する不快な臭い。「濡れた段ボール」「たくあん」と表現される独特の臭いで、リボフラビン(ビタミンB2)が紫外線で分解されて生成されるジメチルジスルフィドなどの硫黄化合物が原因だ。透明瓶の日本酒を光に当てないこと。
老ね香(ひねか)
高温保存で発生する。保管温度が10℃上がると劣化速度が約2〜3倍になるとされている(酒類総合研究所の保存試験データによる)。冷蔵保存ならかなりの期間、老ね香の発生を抑えられる。
硫化水素臭
「ゆで卵」の臭い。通常は火入れと貯蔵の過程で揮発するが、管理が不十分だと残ることがある。
ジアセチルの過剰生成
前述のバター臭。蔵では仕込みのたびに官能検査(利き酒)を行い、オフフレーバーがないか確認している。おいしい香りを知ることと同じくらい、嫌な香りを知ることは重要だ。
保存方法 — 黒笹Edenの香りを守るために
せっかくの吟醸香を台無しにしないために、以下の3点を守ってほしい。 遮光。 紫外線は最大の敵。購入後は箱に入れるか、暗い場所に置く。 低温。 理想は5℃前後。冷蔵庫の野菜室がちょうどいい。特に黒笹Eden、碧笹、緋笹のような華やかな酒は冷蔵保存が必須だ。 密封。 開栓後は空気に触れた面から酸化が進む。飲み残しは栓をしっかり閉めて冷蔵庫へ。一升瓶を開けたら、四合瓶に移し替えるのが理想。グラスの形状で変わる — 黒笹Edenの最適な器
ワイングラス(ブルゴーニュ型)。 口がすぼまった形状が香りを集めてくれる。黒笹Edenや白笹鼓大吟醸を楽しむなら最も適した器。 おちょこ(蛇の目)。 開口部が広く、香りが散りやすい。しかし白笹鼓の本醸造のように穏やかな香りの酒には、かえって「香りが主張しすぎない」利点がある。 ぐい呑み。 備前焼の微細な凹凸がある表面は、酒に微量の空気を含ませて香りを柔らかくする効果がある。温度で香りの「出方」が変わる — 白笹鼓の温度別ガイド
冷酒(5〜10℃)。 カプロン酸エチルが穏やかに香る。繊細な料理と合わせるならこの温度。黒笹Edenや碧笹はこの温度帯で最もバランスが良い。 常温(15〜20℃)。 酢酸イソアミルがバランスよく香り始める。白笹鼓の純米酒の本領発揮はここだ。 ぬる燗(40℃前後)。 エステル類が一気に揮発して華やかになる。白笹鼓の本醸造や純米酒をぬる燗にしたとき、冷酒では感じなかった米の甘い香りが立ち上るのは、この温度帯特有の現象だ。「燗で化ける酒」は、常温以下では感じにくい香気成分が多い酒だ。 熱燗(50℃以上)。 繊細なエステル香は消えてしまう。しかしSAKE for Highballのような熟成酒をこの温度帯で飲むと、カラメルやナッツの熟成香が立ち上がる。香りを「嗅ぐ」コツ
グラスに注いでから30秒待つ。この間に液面からエステルが揮発して、グラスの中に香りが溜まる。鼻を近づけて、まず静かに一嗅ぎ。「何の果物に似ているか」を考えてみる。
次にグラスを軽く回す。もう一度嗅ぐと、最初とは違うニュアンスが見つかることがある。時間差で異なる成分が顔を出す。
口に含んだ後の「戻り香(もどりか)」も重要だ。酒を飲み込んだ後に鼻に抜ける香りのことで、口腔内で温められた酒から新たな香気成分が揮発する。日本酒の香りは、口に含む前にすでに味わいの半分を伝えている。
蔵の利き酒では「含み香」と「上立ち香」を分けて評価する。上立ち香がりんごで、含み香がバナナということも珍しくない。これは異なるエステルの揮発温度の違いによるものだ。
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黒笹Edenのりんご香は、酵母という小さな生き物の芸術だ
仕込みを始めるとき、最初に考えるのは「どんな香りの酒になってほしいか」だ。黒笹EdenならM310で華やかなりんご香を。白笹鼓の本醸造なら7号で穏やかなバナナ香を。碧笹・緋笹なら77号でシャープな酸味を。
酵母を選び、精米歩合を決め、発酵温度を整える。ただし、それで狙い通りの香りが毎年出るかというと、そう簡単ではない。同じ条件でも年によって香りは微妙に違う。自然の産物だから当然だ。
次に黒笹Edenを開けるとき、まず鼻を近づけてほしい。そこに漂うりんごの香りは、M310酵母という小さな生き物が、米と水だけを材料に生み出した化学の芸術だ。
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