日本酒とは? — 15,000銘柄の中から自分の一本を見つける旅の話
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日本酒の蔵元は、全国に約1,500ある。ひとつの蔵が持っている銘柄は少なくても数種類、多ければ数十種類。ざっくり数えても15,000を超える銘柄がこの国には存在している。
仮に20歳から毎日1銘柄ずつ飲み続けたとして、全部飲み切るのに40年以上かかる。60歳を過ぎてようやくコンプリート。しかもその間に新しい銘柄は生まれ、蔵は廃業し、味は毎年変わる。つまり、全部飲むことは現実には不可能だ。
だから日本酒は「好みを探す旅」なのだと思う。正解を見つけるものではなく、自分の舌が「これだ」と言う一本に出会うまでの過程そのものを楽しむもの。この記事は、その旅の地図のようなものだ。全部は載っていないが、どちらの方角に何があるかはわかる。
米と水と麹から生まれる、世界で唯一の酒
日本酒の原料は、米、水、麹、酵母。たった四つだ。
ビールは麦芽とホップ、ワインはブドウ。日本酒は米。どれも穀物や果物から生まれるという点では同じだが、日本酒だけが「並行複発酵」という醸造法を使っている。麹がデンプンを糖に変え、酵母が糖をアルコールに変える。この二つの反応がひとつのタンクの中で同時に進む。ビールは糖化と発酵を別々に行うし、ワインはブドウ自体に糖があるから糖化の工程がそもそも要らない。同時進行で二つの化学反応が起きるのは、世界の醸造酒の中で日本酒だけだ。
この並行複発酵のおかげで、日本酒はアルコール度数が高くなる。発酵を止めなければ20度を超えることもある。ワインの上限が15度前後、ビールが5度前後であることを考えると、醸造酒としては異例の度数だ。もっとも、市販の日本酒は加水して15度前後に調整されているものが多いので、実際に飲むときにそこまで度数を意識する必要はない。
この醸造法の複雑さが、日本酒の味の多様性を生んでいる。同じ米でも、麹の作り方を変えれば味が変わる。酵母を変えれば香りが変わる。水が違えば口当たりが変わる。発酵の温度や期間を変えれば、甘くもなるし辛くもなる。15,000銘柄もある理由は、この組み合わせの無限さにある。
種類の話 — 覚えなくてもいい、でも知ると面白い
日本酒のラベルには「大吟醸」「純米酒」「本醸造」といった言葉が書かれている。これは「特定名称酒」と呼ばれる分類で、ラベルの読み方を知っておくと選びやすくなる。ただし、覚えなくても日本酒は楽しめるということは先に言っておきたい。
大まかに言えば、違いを生んでいるのは「どれだけ米を磨いたか(精米歩合)」と「醸造アルコールを添加したかどうか」の二つだ。
米を多く磨くほど雑味が減り、華やかな香りが出やすくなる。50%以上磨いたものが大吟醸、60%以上が吟醸。磨けばいいというわけでもなく、磨きすぎると米の味わいが消えてしまう。精米歩合23%まで磨いた獺祭の「二割三分」は有名だが、あれは極端な例であって、磨きの度合いと美味しさは必ずしも比例しない。
醸造アルコールを添加しているかどうかで「純米」が付くかどうかが決まる。純米大吟醸、純米吟醸、純米酒は米と麹と水だけで造る。大吟醸、吟醸、本醸造は醸造アルコールを少量加える。「純米のほうが良い」と思われがちだが、醸造アルコールの添加は香りを引き出す技術として確立されており、品質の優劣とは関係がない。
こうした分類は、日本酒の世界を歩くための道標にはなる。しかし、分類を暗記することが旅の目的ではない。「純米吟醸が好き」と思っていた人が本醸造を飲んで驚く、ということは普通に起きる。分類はあくまで目安であって、自分の舌で飲んでみるまでは本当のことはわからない。
甘口と辛口 — 数値だけでは決まらない
日本酒を選ぶとき、「甘口か辛口か」は最も多い質問だろう。しかし、この二つの言葉は日本酒においてはかなり曖昧だ。
日本酒度という数値がある。プラスが大きいほど辛口、マイナスが大きいほど甘口とされる。ところが、実際に飲んでみると日本酒度+3の酒が甘く感じたり、-1の酒がすっきり辛く感じたりすることがある。それは酸度やアミノ酸度が絡んでくるからで、甘辛は日本酒度だけでは決まらない。
居酒屋で「辛口ください」と言って出てきた酒が合わなかった、という経験で日本酒が苦手になった人は少なくない。それは「辛口」という言葉が指す範囲があまりに広いからだ。辛口にも「淡麗辛口」と「濃醇辛口」がある。甘口にも「フルーティな甘さ」と「米の旨味の甘さ」がある。
ここで大事なのは、自分の好みを数値で定義しようとしないことだと思う。「辛口が好き」「甘口が好き」という言い方の代わりに、「前に飲んであれが美味しかった」「このタイプの料理に合うのはどれ?」という聞き方をすると、酒屋の人は格段に良い提案をしてくれる。
温度で別の酒になる
日本酒は5℃から55℃まで、ほぼすべての温度帯で楽しめる。これは世界の酒類の中でも極めて珍しい特徴だ。ビールは冷やすもの、赤ワインは常温、ウイスキーはストレートかロック。日本酒には、温度の数だけ飲み方がある。
冷蔵庫でしっかり冷やした5℃を「雪冷え」、10℃を「花冷え」、15℃を「涼冷え」と呼ぶ。常温の20℃は「冷や」。そこから上は燗の世界で、30℃が「日向燗」、35℃が「人肌燗」、40℃が「ぬる燗」、45℃が「上燗」、50℃が「熱燗」、55℃以上が「飛びきり燗」。同じ一本の酒が、温度を変えるだけで別の飲み物のように味わいが変わる。
大吟醸を花冷えで飲むと華やかな果実香が立ち、純米酒をぬる燗にすると米の旨味がふわっと開く。初心者にまず試してみるのもいいのは、一本の酒を冷酒とぬる燗の両方で飲んでみること。「え、同じ酒?」という驚きが、日本酒への興味を一気に深めてくれる。
そして、日本酒は割って飲んでもいい。ソーダで割る日本酒ハイボールは、日本酒の新しい入口として広がり始めている。度数が半分になり、炭酸のすっきり感が加わり、食事との相性が抜群に良くなる。「日本酒は重い」と感じていた人ほど、ハイボールで飲んだときの軽やかさに驚く。
食事との関係
日本酒は食中酒だ。単独で飲んでも美味しいが、食事と一緒に飲んだとき、その本領を発揮する。
「日本酒には和食」というイメージは根強いが、実際にはもっと懐が広い。刺身や煮物はもちろん、唐揚げ、餃子、チーズ、パスタ、カレーにまで合う酒がある。日本酒の味の幅が広いから、合わせる料理の幅も広いのだ。
辛口の本醸造は揚げ物のキレのいい相棒になるし、純米酒のぬる燗は煮込み料理と溶け合うように馴染む。大吟醸を冷やしてフルーツやデザートと合わせるという楽しみ方もある。ワインのペアリングと同じような奥深さが、日本酒にもある。
日本酒が苦手だという人へ
「日本酒は苦手」という人に出会うことは多い。その理由を聞くと、だいたい4つのパターンに分けられる。においが苦手、辛くて飲めない、二日酔いがひどい、独特の甘さが合わない。
これらの苦手意識の多くは、たまたま最初に出会った一杯の印象で形成されている。居酒屋で出てきた安い熱燗がきつかった、飲み会で無理やり飲まされた——そういう体験が「日本酒=苦手」を固定してしまう。
しかし15,000銘柄もある世界で、一杯飲んで「全部苦手」と結論づけるのは、一冊の本を読んで「小説は全部つまらない」と言うようなものだろう。りんごのような香りがする大吟醸もあれば、レモンサワーの素のような日本酒由来のリキュールもある。甘酸っぱくてシードルのようにも飲める酒もあれば、炭酸で割って日本酒ハイボールにする飲み方もある。
苦手だと感じている人に「克服しろ」とは言わない。ただ、日本酒の蔵が造る日本酒以外のお酒もあるし、日本酒の中にも入口はたくさんある。気が向いたときに、もう一杯だけ試してみてほしい。
蔵元という存在
日本酒を造っているのは「蔵元」と呼ばれる醸造所だ。全国に約1,500あると書いたが、この数字は減り続けている。ピーク時と比べれば大幅に減った。国内の日本酒消費量も1973年をピークに約5分の1にまで縮小している。
蔵が減る理由は複合的だ。後継者不足、設備の老朽化、日本酒離れ。しかしその底にある構造的な問題は、一本の酒ができるまでに関わる人の多さに対して、酒の価格が安すぎることにある。米農家、種麹メーカー、酵母、蔵人、瓶商、キャップ屋、印刷屋、問屋、酒屋——これだけの人の手を経て、720mlが1,500円で棚に並ぶ。
一方で、日本酒は海外で伸びている。輸出額は過去最高を更新し続け、ニューヨークやロンドンのバーに「sake」が並ぶようになった。国内では消費が減っているのに、世界では「日本酒ってすごい」と再発見されている。
この矛盾の中で、蔵元はそれぞれのやり方で未来を模索している。獺祭は杜氏を置かず計数管理で大吟醸を量産し、「飲んだことのない人を顧客にする」と宣言した。新政酒造は全量純米・6号酵母のみという制約を自らに課し、甘酸っぱいという日本酒の新しい味わいを切り開いた。SAKE HUNDREDは一本一万円以上という価格帯で日本酒のラグジュアリーを打ち出した。どれも「今までと同じでは生き残れない」という危機感から生まれた挑戦だ。
小さな蔵元もまた、それぞれの方法で戦っている。日本酒ハイボール専用の酒を設計する蔵、大吟醸ベースのレモンサワーの素を開発する蔵、毎年異なるヴィンテージで限定酒を仕込む蔵。日本酒の技術を使って「日本酒以外」のお酒を生み出す動きも広がっている。蔵の数は減っているが、残った蔵の挑戦は確実に多様になっている。
最初の一本をどう選ぶか
15,000銘柄から一本を選ぶのは、確かに途方もない話だ。でも、最初の一本は「最高の一本」である必要はない。旅の一歩目はどこからでも始められる。
いくつかのヒントを書いておく。
地元の蔵の酒を飲んでみるのは良い入口だ。日本全国どこに住んでいても、近くに蔵元がある可能性は高い。その土地の水で、その土地の空気の中で醸された酒には、理屈抜きに惹かれるものがある。酒蔵見学を受け入れている蔵も多く、蔵の空気を吸いながら飲む一杯は格別だ。
酒屋で店員に聞くのも良い方法だ。「甘口がいい」「辛口がいい」ではなく、「今日は焼き鳥と一緒に飲みたい」「フルーティなのを試したい」と伝えると、思いがけない一本に出会えることがある。
あるいは、何も考えずにジャケ買いしてもいい。ラベルのデザインに惹かれた、という理由で手に取った酒が一生の好みになることもある。日本酒のラベルは蔵元の個性が表れる場所だから、直感で選ぶのは案外理にかなっている。
この記事がきっかけになれば
この記事を書いているのは、神奈川県秦野市にある金井酒造店という小さな蔵元だ。明治元年の創業から150年以上、丹沢山系の名水で酒を醸してきた。白笹鼓という日本酒を中心に、日本酒ハイボール専用の酒や、大吟醸ベースのレモンサワーの素、梅酒、スパークリングなど、日本酒の技術から生まれるさまざまなお酒を造っている。
15,000銘柄の中のひとつに過ぎない。でも、この記事をきっかけに「日本酒、ちょっと飲んでみようかな」と思った人がいたなら、蔵元としてこれほど嬉しいことはない。
好みを探す旅に、終わりはない。だから面白い。