秦野の水はなぜ酒に向くのか — 千七百万年前の海底火山がつくった仕込み水
Share
日本酒は、その重さのおよそ八割が水でできています。米を洗い、蒸し、麹を育て、醪(もろみ)を仕込む。醸造のあらゆる場面に水が関わり、その水の性格が、できあがる酒の表情を決めていきます。
では、秦野の水とは、どんな水なのか。なぜこの土地が「名水の里」と呼ばれ、酒造りに向くのか。その答えを探すと、話は一千万年単位の、ずいぶん遠いところまでさかのぼります。少し壮大ですが、グラス一杯の水に溶けている時間の話だと思って、付き合ってください。
※ 写真はイメージです
丹沢は、もともと海の底の火山だった
秦野の北にそびえる丹沢は、はじめから山だったわけではありません。今からおよそ千七百万年前、このあたりはまだ海の底で、活発に噴火する火山だったと考えられています。
その火山が、フィリピン海プレートに載ってゆっくりと北へ運ばれ、五百万〜六百万年前に本州へ衝突しました。さらに百万年ほど前、南から伊豆の地塊が押し寄せて衝突し、丹沢は海の底から一気に空へと押し上げられた。いまわたしたちが見上げる丹沢の山並みは、地球が海の底の火山を持ち上げた、その痕跡なのです。秦野の水を語るには、まずこの「もとは火山だった」という生い立ちを押さえておく必要があります。火山がつくった地層こそ、この土地の水を磨く装置だからです。
地層が、水を磨く
丹沢の地層は、火山がつくった凝灰岩に、泥岩・砂岩・礫岩が複雑に積み重なった、ぶ厚い層です。丹沢に降った雨や雪は、地表からしみ込み、この地層を何十年もかけてくぐり抜けていきます。
長い旅のあいだに、水は余計なものを濾し取られ、かわりに地層のミネラルを少しずつ溶かし込んでいく。人がつくったどんな浄水器より気の長い、天然の濾過装置です。蛇口をひねって出てくる水が、何十年も前に山に降った雨だと考えると、不思議な気持ちになります。秦野の水のすっきりとした清らかさと、ほどよいミネラル感は、この「地層を通り抜ける時間」が生んでいます。
秦野盆地という、天然の巨大な水がめ
そして秦野盆地は、その水を溜める巨大な器でした。
地下およそ百〜百五十メートルのところに「吉沢ローム層」という、箱根の火山灰が風化してできた粘土の層があります。粘土は水を通しにくいため、この層が蓋のように働いて、地下水を浅い層(浅部帯水層)と深い層(深部帯水層)の二段に分けて蓄えている。盆地全体では、七億五千万トンとも言われる水を抱えた、まさに天然の水がめです。
この器からあふれ出してくるのが、市内に点在する湧水群です。一九八五年(昭和六十年)、環境省(当時の環境庁)の「名水百選」に、この「秦野盆地湧水群」が選ばれました。神奈川県内では唯一の選定です。さらに二〇一五年、名水百選三十周年を記念して行われた「名水百選 選抜総選挙」では、おいしさが素晴らしい名水の部門で、全国第一位に選ばれています。「県内唯一」「全国一位」という評価が、この水の特別さを物語っています。
※ 写真はイメージです
その水は、どんな水か — 軟水寄りの中硬水
水の個性を語るとき、よく使われるのが「硬度」です。カルシウムやマグネシウムといったミネラルが多ければ硬水、少なければ軟水。そして硬度は、酒の発酵にも仕上がりにも、はっきり影響します。
硬水はミネラルが豊富で酵母が活発に働き、発酵が進んでキレのある辛口になりやすい。軟水は発酵がおだやかに進み、繊細でまろやかな酒になりやすい。灘の酒が辛口の「男酒」、伏見の酒がやわらかな「女酒」と言われるのも、もとをたどれば仕込み水の硬度の違いです。
秦野の水は、日本の感覚では軟水寄りでありながら、世界基準(WHO)でいえば中硬水にあたる、ちょうど中間のミネラル感を持っています。位置づけでいえば、キレを生む灘の硬水と、まろやかさを生む伏見の水の、あいだあたり。だから秦野の酒は、やわらかな口当たりと、芯の通った旨み、その両方を一本のなかに持てるのだと思います。極端に振れない、バランスの水です。
蔵の井戸から出てくる水
わたしたち金井酒造店が仕込みに使っているのも、この秦野盆地の帯水層から、蔵の地下を通して汲み上げる水です。千七百万年前の火山のミネラルが、丹沢の地層を何十年もかけて旅して、いま蔵の井戸から出てくる。仕込みの朝にその水へ手を浸すたび、途方もない時間の上で酒を醸しているのだと、静かに思います。
代表銘柄「白笹鼓」のやさしい口当たりは、技術より先に、まずこの水から来ています。そして、その土地の個性をできるだけそのまま瓶に映そうとしているのが、テロワールに挑むシリーズ「ミライザケ」です。秦野の水と、表丹沢を望む大地で育てた米。水と米の両方を、できるかぎりこの土地でそろえる。水の話は、そのまま酒の話につながっています。蔵そのものの来し方は「金井酒造店という蔵のこと」にまとめています。
水を、自分の舌で
文章で読むより、ひと口飲むほうが早い、とも思います。せっかくなら、秦野の水を実際に味わってみてください。
金井酒造店の蔵見学では、仕込み水を汲み上げる場所をご案内しながら、実際にその水を口にしていただけます。試飲もあるので、「水から始まる味の旅」を一杯で完結できます(蔵見学は要予約。詳細はこちら)。市内の湧水スポットをめぐりたい方は「秦野の名水・湧水ガイド」や、水と酒造りの話をやわらかくまとめた「秦野の水が生む味」もどうぞ。